第1節 戦後復興と中小企業
1、「傾斜生産方式」による戦後統制
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾しました。これにより連合国側に敗北し、第2次世界大戦は終結しました。 日本経済は戦時体制が瓦解することによって危機に陥りました。農業生産は1935年前後を100として、1945年・1946年・1947年と78・100・78の水準になりました。工業生産も同じく1935年前後を100として、1945年・1946年・1947年と20・30・50の水準となりました。
しかも、戦争末期の米軍による日本の工場への激しい爆撃によって、軍需工場・大企業工場だけでなく、大都市を中心とする中小企業工場もことごとく破壊されました。 そのとき、労務者の中小企業工場ほど焼失率が高くなっています(従業員10人未満の工場の51%、10人以上100人未満の工場の42%、100人以上500人未満の39%、500人以上1000人未満の工場の30%が焼失)。
そして、日本に実質的に単独進駐を果たした米国は極東委員会と連合総司令部を通じて政治・経済の非軍事化と民主化政策を実施して、戦時統制を撤廃し、三井・三菱などの財閥の解体、農地改革、労働改革、政治活動や言論・結社の自由などを実現して行きました。
このような戦後経済にかわる「自由経済」の中で、大企業は軍事生産の解体と財閥体制によって、虚脱状態にあり、「生産サボタージュ」を続けました。一方、中小企業はそのような被災を受けたにもかかわらず、生産・流通の再開を率先して行いました。また、復員軍人を中心とする創業が多数の中小企業の新生をもたらしました。こうして、中小企業が激増して「繁栄」を呈し、中小企業が国民生活に必要な物資の生産や流通を担うことになったのです。
しかし、同時米ソ対立を背景にして対日占領政策の転換が始まりました。1946年12月ごろから、基幹産業の大企業を優先的に再建する「傾斜生産方式」(鉄鋼や石炭に資金、資材を重点的に配分し、それらがやがて肥料や電力などの生産に波及していくと想定された方式)と名づけられた経済復興政策が開始され、終戦直後からの事実上の「自由経済」は終焉して、「戦後統制」を迎えました。
しかも、中小企業はこの「傾斜生産方式」による政策支援から排除されたばかりでなく、資材・資金・電力の極端な不足、「資材難」「資金難」などに直撃され、戦後初期の中小企業問題が醸成されました。 さらに、特別税制(戦時補償特別税、臨時増加所得税)が敷かれ、徴税が強化され、中小企業経営は一挙に暗化しました。このような状況に、中小企業にあっては「資材や資金不足」だけでなく、厳しいとう切実な要望が中小企業全体にわき立ちました。その結果各地で、各業の中小企業の団体が結成され、多様な中小企業運動が開始されていったのです。
2、「中小企業家同友会」の前身
―全日本中小工業協議会の誕生と中小企業運動―
当時の中小企業運動の多くを結集して、1947年5月26日に全日本中小工業協議会(「全日本中小企業協議会」と改称、略称はいずれも全中協)が誕生しました。 中小企業運動の理念と担い手という視点からいえば、全中協は中小企業家同友会の前身と考えられます。
全中協の機関紙「中小工業」創刊号(1947年6月15日)は自らの誕生とそこに至る経過および意義を次のように伝えています。
「全中協はどのような過程を経て生まれたのをみれば、即ち敗戦後財閥と独占企業の解体によって、今や中小企業がにわかに国民経済の中軸的存在となってきた。けれども、わが中小工業はもともと雑然たる存在で、資本制大工業の単なる補充的部分でしかなかったものである。当然の結果として中小工業は国民経済に於いては独占資本の制覇の下に商業資本、産業資本に従属して臨検される受動的役割を担うに過ぎなかった。
従って敗戦後中小工業が日本経済の中核的実在になったこと、それは中小工業自体の実力がしからしめたものではなく、若し中小工業が日本経済復興に大いに寄与せんとするならば、その力を発揮し得るに足る工業がならなければ駄目である。即ち中小工業が自らの足をもって立派に立ち得るようになることが絶対的要件である。これは勿論経済構造の基本的変革を通じて行われなければならないが、同時に中小業者が主体的にかかる構造変化に即応する体勢をとることが不可欠の条件である。ここに於いて遂に中小工業を全国的に組織化する問題が提起される訳で、此の組織化の中核団体として全国日本中小工業協議会は以上の如き国民を担い興し中小工業者を強力に組織し、経営の協同化と低位を払拭する中小工業者の社会的実力を名実共に身につけようとして自発的に結成されたものである。(中略)全中協は構成の主力を団体におき、同時に経験者、他産業に属する団体及び個人、中小業に属する労働組合等を特別会員としている。しかし、そのさし当たりの活動は、個々の業者団体がバラバラに資材をよせ、資金を集めさせ、計画を樹立する官庁ににぎらせぬ、且つ生産計画を樹立する官庁に一部の業界ボスに代わり、その代表者として積極的に参画し、具体策、実施、実現を期せんとする。 また当面の課題が経済の復興を指して外となる現状にかんがみ、経済復興会議に積極的に参加したのである」
どうして発足した全中協は『綱領ならびに規約』(付録A資料集)において、①中小工業者の離脱と日本経済の再建への寄与、②大工業偏重政策の弊の排除と資材・資金の公平配分の実現、③中小工業問題の根本的な解決、④中小工業の技術的・経営的欠陥からの脱却、⑤従業員の人格の尊重と自主的相互協力、⑥中小工業者の自主的・全国的組織の完成、の諸点を強調しました。
3、中小工業者団結の呼びかけ
そして結成後直ちに、全中協の名をもって「全国の中小工業者各位へ」(付録A資料集【2】)と題する次のような呼びかけを行いました。そこには当時の中小企業をめぐる状況と中小企業家たちの対応があらわれています。
「従来中小工業を代表する有力な全国的団体として商工協同組合中央会或いは商工会議所等がありますが、本協議会は更に之に屋上屋を架するために組織されたものではありません。既成諸団体が単に官庁との連絡機関の域を出得ず、迫り来る経済危機に直面しながら虚辞、美名を連ねてなす如き行き方を批判し、かかる御用主義と旧勢力の地盤温存を排除して、真に中小工業者の自主的機関として積極的に経済計画に参画して、真に民主日本に相応しく前進的展望をもって企業の協同化と適正経営規模の設定をはかり、大工業に拮抗して生産の発展を期さねばなりません。(中略)中小工業者が団結せず各個人に分断される限り当面の危機を打開しうるべき割当の資材、資金も受けられず、大工業、問屋等の闇便により公正を欠く現況で税等の査定も天下りで公正を欠く現況であり、近く実施される筈の労働基準法は、中小工業の労働力を従来の如き粗放、低位な状態に置くことを許さないのであります。この面からも業者は従業員と相協力して行かねばなりませんし、自らも小異を捨てて大同に就き、強力な組織のもと確固たる基盤を保持するに努めなくてはならないのであります。
本協議会は叙上の点に鑑み、差し当り活動を当面の危局の打開に集中し、資材、資金、税務、労働等の問題の具体的解決に努めるため経営上、技術上の日常的諸要求を取り上げ検討、実現を図り、かつ既成団体の旧支配層の利益擁護の企図を経済民主化を通じて根本的に解決せんとするのであります」
全国組織として発足した全中協は次第に地域組織を誕生させて行きました。1947年9月15日に兵庫県中小工業協議会(兵中協)、同年12月10日に関西中小工業協議会(関中協)、1948年3月31日静岡地方中小工業協議会準備会、同年5月21日には東京中小工業協議会(東中協)が結成されました。
4、税、企業整備、金融問題で提言
中小企業運動のこうした活発化にもかかわらず、中小企業をめぐる状況は深刻化の度合いを強めました。 その過程で1948年末から、経済安定9原則(1ドル=360円という固定的単一為替レートの設定、①財政の健全化 ②徴税の強化 ③前提に、④賃金の安定 ⑤価格の統制 ⑥輸出重点の割り当て、など)とくに輸出原材料の割り当ての適正化、⑧国内生産の増加、⑨食糧供出の物価9原則の実施、すなわち「ドッジ・ライン」が実施されました。
この「ドッジ・ライン」は、危険金融融資の貸し出し機能停止を前提として、1949年度の大幅削減と課税の強化を実施しました。 そのため、倒産の実施となって現れ、大量失業となり、いわゆる「企業倒産の恐慌」が深刻化するにいたり、中小企業は全面的な不況の状況に直面することになったのです。
全中協はこのような事態に対して、税金問題については、①担税力は既に限界を超えていること、②課税の適正基準を欠くことが甚だしいこと、③新たな生産税、手形税等に絶対反対であること、④新悪税を新設するなら、取引高税(1948年7月から1949年3月に実施された間接税の1種で、製造、卸売り、小売りの各段階につき、総売上高を課税標準として比例税として課せられる。付加価値税と異なり、税負担の累積を排除する仕組みをもたない)を改善して残す方が良いこと、⑤個人営業者の基礎控除額、扶養控除額を設定すべきこと、⑥法人所得税の基礎控除額を現行の1万5000円から6万円に引き上げること、⑦税金問題は既に社会問題化しつつあること、を主張しました。
企業整備問題については、①9原則に名を借りた実体経済方式は、中小企業を無視した大資本偏重政策であってはならないし、不当な9原則の精神は絶対反対であること、②経済にから、これの実施をさかんに反対するもので、中小企業を圧迫する独善から不当に企業整理などを強化して存続させるべきであること、③中小企業の日本経済に占める比重を再認識してその育成に万全を期せられたい、と主張しました。
さらに、金融問題については、①独立した中小企業専門の金融機関を設置すること、②政府支払いの促進を図ること、その他に、「中小企業協同組合法」を制定することを各界・各方面に訴えました。
なお、この中小企業専門金融機関の設置の要望は、その後「中小企業金融公庫」の設立運動となって進展していきました。全中協・金融部会は、「中小企業金融庫設置案」を成案して、その実現に努力しています。
「中小企業金融(仮称)設立案」の骨子は、①中小業専用の特別金融機関を設置し、中小業者が自主的に且つ務めて民主的に運営出来得る様政府に於て特別の措置を講ずること、②設立は特別立法において行い、中小工業者を基盤とした互有民営の法人組織とすること…
…③出資者を中小業者(個人・法人)並びにその経営者及び従業員に限ること、④その経営者としての出資者の経営参加・発言権を、出資口数と関係せず、「1人1票」とすること、⑤運転金のみを取り扱い、融資以外の業務として預金及び為替、中小業者の信用保証を行う、というものでした。
このような「中小工業金融」自体は結局設立されませんでしたが、その後、中小企業金融公庫(創立1953年)や、当時の全中協の委員長が理事長に就任しています。
5、全中協運動の意義と反省
ところで、この時期の全中協の運動について、全中協中央常任委員の山口松三郎氏が次のような総括を行いました。まず、全中協の中小企業運動の意義として以下の5点を指摘しています(『中小工業』No.7、1948年1月25日)。
①中小業者は過去に於ける大資本の隷属的諸関係を絶ちきり、その自主性を確立することとした。 ②中小業の存在と発展の建設的基盤をとりのぞき、経営の民主化と近代的生産方式を確立することによってのみ新しい中小工業は存在し発展し得ることをはっきりさせた。 ③中小業を無視した政府の大企業本位の重点生産・傾斜生産による経済再建方式に反対し、中小業の経済界に占める比重と地位と役割を強調し、大企業と同等の立場で、生産復興の担当者としての地位を獲得すべきである。 ④戦中と殆ど変わらぬ官僚統制に反対し、民主的統制の確立の旗印を鮮明にした。 ⑤この運動と組織は、1党1派に偏することなく、超党派の立場を堅く守ることによって大きく発展し得ることを明確にした。
しかし同時に、山口氏は偏向と誤りが起こったことを「率直に批判」しなければならないとして以下の3点を取り上げています。
第1点は、「中小工業独善主義」です。
「中小工業独善主義」は「財閥の解体と経済力集中排除法、独占禁止法、企業再建整備法等一連の経済民主化の実施により、もはや日本には大企業は存在し得なくなり、すべての企業は中小企業になり、従って経済建設と生産増強は中小工業のみによってなされると主張する。これらの人たちは、日本帝国主義の本質とそれらを根強さを理解せず、連合軍の平和的民主主義日本建設の真の意図を誤解しているのである。同時に、日本経済の再建とその自主的独立のための諸条件について正しい認識を欠いている」
第2点は、「会議主義」です。
「会議主義」は、「経済安定本部や商工省、あるいはその他の行政機構等の中に、我々の代表者を送り込みさえすれば、中小業の再建を期し得られると過信している。その結果、独善的官僚とそれへの屈従とを結びつける危険性がある」
第3点は、「技術偏重主義」です。
「技術偏重主義」は、「中小工業の存在と発展の基礎条件を専ら生産と経営の技術の良否の範囲でのみ求めようとしている。この考えは中小業の極度の企業整備を主張する独善的官僚主義と一致している。生産と経営技術の真の向上発展は、政治と経済の民主化と関連して考えなければならない。同時に経営の真の民主化と生産の民主的協同化とマッチしてなされるということを見逃している」
さらに、山口氏はこうした偏向の原因について、
「この3点のあとにこうした誤りは我々の必ず通らなければならない途ではある。そしてその原因は、我々が日本資本主義の発展の特殊性と侵略主義との相対的関係、中小工業の存在又は発展し得た過去の政治的経済的特殊性についての正しい理解を持ちえないことから起こるのである」
と指摘しました
(注)ドッジ・ライン
1948年1月、アメリカ占領軍・GHQ(経済顧問団)ドッジ氏が提案した経済政策。 単一為替レート(1ドル=360円)の実施などにより経済の復興を図ったが、逆にデフレ政策となり、失業や倒産が相次ぐ「ドッジ不況」が引き起こされた。
第2節 戦後再編成と中小企業運動の興隆
1、特需ブームと戦後企業システムの形成
ドッジ不況下にあった日本経済を打開したのは、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争でした。それはいわゆる「朝鮮特需」をもたらし、「特需ブーム」を引き起こしました。
「朝鮮特需」は日本経済を不況から回復させただけではなく、産業構造、企業間の関係、金融機関における戦後再編成のきっかけとなりました。
中小企業は「特需ブーム」とその後の過程で、下請制、流通系列化などの大企業と直結した形で再編成されていきました。また、輸出振興政策の推進の中で各地に輸出型地場産業が形成されていったのです。そうした経済復興によって人々の消費生活の回復がはかられ、全国各地に商店街が形成されていきました。
金融機関としては、政府系中小企業金融機関として国民金融公庫、中小企業金融公庫、信用保証協会などが設立されています。
このように、大企業と中小企業がさまざまに結びつき、それを支える枠組み、いわば「戦後企業システム」がこの時期に形成されたのです。後年の『昭和30年度経済白書』において日本経済の「二重構造」として指摘される問題は、この「戦後企業システム」を基盤にしています。
また、産業合理化政策の推進、独占禁止法の緩和改正、日本開発銀行、日本輸出銀行などが設立され、大企業支援体制、いわゆる「日本株式会社」が形成されていきました。
こうして経済的な諸制度・諸機関の整備はその後の日本経済の高度成長を準備することになりました。
しかし、こうした過程は中小企業にとって順調なものではありませんでした。「特需ブーム」は朝鮮戦争の休戦とともに1年余の短期間で終息してしまいます。その景気後退の打撃が中小企業に集中していったのです。再編が進んでいた下請制において、後年、全中協が制定を推進した「下請代金支払遅延等防止法」の根拠となった下請中小企業へのしわ寄せが多発したのもこの時期の特徴でした。
2、中小企業運動の興隆と「伝統の確認」
このような1950年代半ばの激動した時期はまた、中小企業運動の戦後直後の高揚に次ぐ、再高揚の時期でもありました。
たとえば、全中協とその後の同友会運動の担い手となった山下保氏や清塚重氏の表現を借りるならば、戦後の「中小企業運動の高揚した一つの締め括り」(山下氏)であり、「当時の中小業者団体が大きく結束した運動」(清塚氏)であり、1953年3月31日に中小企業団体法を背景に日本中小企業組合連盟、全国商工団体連合会、物品税撤廃期成同盟、そして全中協が一堂に会し、3000名を結集した「全国中小企業者大会」でした。
この勢いは政界にも波及して、与野党合わせて298名の議員による中小企業議員連盟を生んでいます。
しかし、そのような中小企業運動の高揚を疑視した人物がいました。鮎川義介氏です。清塚氏によれば「鮎川氏自身が政治の中で、ある勢力をもち、政治の基盤を固めていく、それから政治方針に中小企業を取り込んでいくという2つの目的を持っていた」のです。したがって、中小企業運動のこの時期の高揚は、その後の混乱と低迷への出発点でもありました。
ところで、全中協はこの間の運動を「1955年度運動方針(案)」(『全中協新聞』昭和30年6月25日)で次のように総括しています。
まず、活動の成果として
①日常的な経営相談、あるいは斡旋の業務は年間相当量に達し、会員との接触は相当深く、又多量であった。
②次々と生起する中小企業の諸問題に対して、逸早く正しい理解と認識を与え、広く業界に指針を与えた。
③『全中協新聞』はこの意味で一つの特徴をもち、注目された。
④常に先んじて問題をとりあげ、又運動の先頭に立った。このことは他の団体に対して際立った特徴となり、又世間の期待にもこたえた。
⑤幅広い政策を掲げて、健全な批判的勢力の一方の中心となった。
⑥諸団体の共同行動の中心勢力、指導勢力として、団結を大きくし、固めるためにはらった。
⑦中小企業の代弁者として国会、政党、政府、言論機関、世論に対し、長年培ってきた政治的社会的発言力を十分に発揮した。
そして、「創立以来の経験の中から我々は次のような独特の伝統を作ってきたことがその基礎であることを改めて確認した」として、
①「団体として特定の政党と特別の関係を作らず、中小企業の利益に対しては超党派的支持を求め、会員の政党支持の自由を拘束しなかったこと。②多数の自由な意見交換が行われたこと。③政党や特定有力者に経済的に依存しなかったこと。④独裁を排し、民主的運営につとめたこと」の4点が挙げられています。
いうかんが、「凡そ、これらのことが中小業者の純粋な立場を保持し、権力に屈せず、旺盛な批判的精神を発展させた原因となったのです。」
こうした「伝統の確認」の意義について、田山こうし氏(「私が同友会に入会した1980年代当時は、私が所属した支部が同友会設立のメンバーになっていたので、全中協の運動の特徴をいつも話され、そういうことを守っていかないと本当に良い中小企業運動はできない、リーダーたることはできないんだと、先輩たちが熱っぽく語っていたことを今でもよく思いだします。同友会の前身である全中協の活動方針、運動の良き精神を継承したと思います」(『同友会運動の源流と理念』中同協)と語っています。
3、同友会運動の源流
〜全中協、莫進会、関西協の運動〜
全中協常任幹事であり、日本中小企業家同友会創立に参加、中同協政策委員長も務めた山下保一氏は、当時の運動を次のように語っています。(『東京同友会40年のあゆみ』1980年刊より)
「私が同友会の前身である全中協に参加したのは1947年の秋のことです。私は引揚者で、生活のための企業づくりをやっていました。全中協が中小企業運動に出てくる契機になったのが1946年暮れからの吉田内閣の鉄鋼、石炭の傾斜生産です。その頃、傾斜生産だとか肥料、電力などへ移っていって、特に中小企業との関係では電力危機という形で企業の存立をおびやかす大変な事態が生まれました。
もう一つ、全中協が中小企業運動として出てきたのは、経済復興会議の広範な呼びかけがあったということもあります。当時、経済復興会議という混乱のなかで、民主的経済をどういうふうに作りあげていくかを広範に呼びかけていました。復興会議の中には中小工業の委員会ができて、全中協の中には中小工業の委員会の中に3名参加しました。当時全中協と経済復興会議との関係はかなりのものだった、といえます。それから、もう一つ、苛酷な徴税というのがありました。例えばある商店街から平均いくら取れと大蔵省から各税務署に割当てで徴税するという今では考えられないやり方です。
以上のように傾斜生産方式による原材料不足、電力不足による経営危機、苛酷な徴税それから復興会議の民主的経済再建への呼びかけ、そういうものが全中協運動のきっかけでした。同友会が生まれる背景にはこうした全中協と合わせて東京の莫進会の中で民主化運動を進めていた莫進会との出会いがあります。当時この莫進会は全国の丸編メリヤス5000工場のうち70%が企業整備という名のもとに廃業か再統合を迫られるという企業整備反対の先頭にたっていました。私は上海からの引揚者仲間で富士繊維工業という会社をつくっていました。ところが、設立早々、この企業整備という問題がおこって東京丸編メリヤス協会の会合で企業整備反対の演説をぶったのです。結局、協会は企業整備をすすめる方針の決定ができずに散会となりました。私がその総会の玄関を出たところで、“ばん”と肩をたたく人がありまして、それが莫進会代表の束原誠三郎氏、のちの同友会代表理事だったんです。
『東京で莫進会の運動があった頃、関西でも中小企業の運動で、関西中小工業協議会主催の大規模な企業防衛決起大会が開かれていたのです。そして莫進会などの自主・民主の伝統を受け継いで、大きく中小企業を団結させる流れが、今日の同友会の源流になっているのです』
(注)鮎川義介(あゆかわ よしすけ)
1880〜1967年。実業家・政治家。日産コンツェルン創始者。戦前は満州国の重工業化・財閥化を推進。戦後はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置、出所後日本の復興策の中心となる「日本生産性本部」を構想し、1955年日本中小企業政治連盟(中政連)を設立。1956年日本中小企業団体中央会の二代目総裁に就任。鮎川と中政連については、第2章後節に記述。